1987年にアルゼンチンに留学した当時の日本では、
アルゼンチンタンゴ・ダンスを踊る人は皆無であり、
タンゴに親しんでる人は全て音楽と歌のみに異常な程の執着心を持っており、
ダンスを排除する傾向にあった。
タンゴショー等も、演奏が主役でダンスは脇役であり、この傾向は日本だけではなく
アルゼンチンでも同様であった。
ダンスの伴奏として誕生したタンゴ音楽は、その後、作曲家、演奏者、歌手の努力で
ヨーロッパ上陸を果たし、タンゴの存在を認知させていった。
即ち、タンゴの普及には前者の功績が大であり、ダンスは微々たるものであった。
以上のような状況では、タンゴ音楽ファンのみの存在も納得である。
今でこそ笑い話として言えるが、公演後のアンケートに、
タンゴは演奏、歌、踊りの三位一体と記しながら、踊りのところを×印で消されていていたり、
また、踊り始めると目を閉じて音楽だけを聴いている観客もいた。
私のタンゴダンスは、このタンゴの歴史を背負いながらのスタートとなった。
悔しくても歴史には逆らえず、むしろ歴史を受けとめて、
如何にダンスを普及するかの模索の始まりでもあった。
また、当時はアルゼンチンタンゴ・ダンスは床が傷つくからとの理由で、
使用を断る会場も多くあった。フラメンコと間違えて(笑)
ダンスが主役のショーが最初に出現するのは、1986年にブロードウエーでロングランした
「タンゴ・アルヘンティーノ」であった。
このショーも、最初はヨーロッパで公演したが、あまり人気が出ず、
後にショーの本場アメリカで大成功を収めた。
その背景には当時のヨーロッパは、見るよりも自分が踊る方に興味があり、
一方アメリカでは、これと反対の傾向にあったようである。
しかし、「タンゴ・アルヘンティーノ」に出演しているダンサーが、
ニュヨークで頻繁に講習を行った結果、タンゴを踊る人口がアメリカで急激に増加していった。
初期の頃の「タンゴリベルタ」舞台風景
時を同じくして、日本でダンスを主としたショーを目的に誕生したのが「タンゴリベルタ」であった。
「小林太平と江口祐子 アルゼンチンタンゴ舞踊団」を結成し、
「タンゴリベルタ」の旗揚げ公演を辛苦をなめ実現させるが、
ここから、継続させる困難を知ることとなった。
続く
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